金鳥の蚊取線香はなぜ渦巻きなのか ─ 企業における創意工夫の大切さについて ─

講師:大日本除虫菊株式会社 代表取締役社長 上山 直英

蚊取線香は100年以上も前に開発された商品ですが、商品開発の基礎的なことは全部ここにあります。商品開発のキーワードは、現場主義、応用と工夫、原料品質の管理、この3つだと思っております。
 明治18年にアメリカで植物貿易会社の社長をやっていたH・E・アモア氏が来日して福澤諭吉に日本で植物を扱ってる人の紹介を依頼しました。私どもの創業者、上山英一郎は和歌山のミカン農家の六男坊でしたが、実家のミカンを世界に輸出する会社をつくりたいと考え、慶應義塾で学んでおりました。そこで福澤先生から呼ばれてアモアさんと会います。その後アモアさんを和歌山へ招待して、ミカンの苗木や日本の竹やシュロなどの植物を渡しました。翌年、アモアさんからお礼として、彼が扱っていた様々な植物の種が送られてきました。その中に除虫菊の種がありました。
 除虫菊を栽培してもらう農家をみつけることが必要でしたが、地元では相手にしてもらえませんでした。そこで栽培農家を募集する新聞広告をだして日本全国の脈のありそうな農家を訪ねてゆきました。そして、最初に栽培を引き受けてくれたのは広島の農家でした。
 はじめは欧米のように、除虫菊の粉でノミ取り粉を作ることを考えましたが仏壇線香に除虫菊の粉を練りこんだら蚊取線香ができるというアイデアを思いつきます。こうしてできたのは棒状の線香ですが、これだと40分ぐらいしか持ちません。何とか一晩は持つものをと悩んでおりますと奥さんのユキさんが渦巻きにしたらどうですかと言って、そして蚊取線香は渦巻きになります。最初は線香を木の板の上で乾かしていましたが、板にくっついてしまって不良品がたくさん出る。また悩んでおりますと奥さんが餅焼き用の網を使ってみたらと言うのです。今は機械生産になりましたけれど、その網を応用したものを現在も使っております。
 除虫菊というのは天然物ですから、年によって収穫量が変動します。収穫量が減って値段が上がっても商品の値段は簡単には変えられません。そんな時、除虫菊を減らした線香を作ったところもあったようですが英一郎は非常に厳しい人でそれを絶対に許さなかったそうです。
 商品というのは外から見ただけでは分かりませんから、全ては作る側の姿勢によるわけで、こうした商品づくりをしてきたことが、今の「金鳥の渦巻」の品質に対する信頼につながっていると思うのです。
 ものづくりの原点はこの創業時に全てあると思います。物事を新しく始めるとき、ともかく現場を歩き回って地道に足で調べる。現場に潜っている間に新しいアイデアを思い付くこともあります。そして一つ形ができたら、工夫してさらに進化させるにはどうしたらいいかを考え抜く。もう一つ大事なのは、品質を原料の段階から管理することです。
【世界雄飛から敗戦】
 創業者は、世界を相手に仕事をしたいという夢を持って会社をつくりました。戦前はウラジオストック、ニューヨーク、台湾、朝鮮、シンガポールに支店を持ち、中国やインドネシアには工場もあって世界へ製品を輸出していました。
 昭和18年に私の祖父が社長になりました。しかしその2年目に大阪工場が空襲で全滅。工場用地の3分の2は、農地改革で取り上げられ、海外の支店、工場などは全部現地国に没収されましたから一度は事業をやめようと思ったそうです。しかし終戦からしばらくすると取引があった問屋さんだけでなく、色々な人から蚊取線香を売ってほしいという手紙が沢山来て、祖父はこれならまだ会社が続けられる、社員のことも考えると、何としても再起しようと思ったと聞いています。
【化学的研究を深める】
 戦後の私どもの開発は、有効成分の開発と、その用途開発に分けられます。家庭用殺虫剤は、当時は、経験的な商品で、除虫菊の何の成分が効くかという化学の面からの研究が遅れていました。
 しかし、DDTの登場に刺激されまして昭和24年に私どもの研究所が除虫菊成分の化学構造を解明することに成功しまして、以後有効成分の工業生産が可能になりました。
 私どもは成分の研究を続けると同時に、それを応用できる商品を作っていきました。今世界で使われている家庭用の殺虫剤の原型は、ほとんど私どもが開発したものと言えます。
【筋道からぶれない】
 さてこれからは経営一般について3点に絞ってお話しします。
 よく、語り継がれてきた社是社訓のようなものがあって、それを守ってきたから会社が続いてきたのではないかと聞かれます。
 定まったものはないのですが、近いものはあります。「昔も今も品質一番」これは商品のキャッチフレーズです。「鶏口となるも、牛後となるなかれ」これはマークを決めたいきさつです。この2つが商品づくりの軸になっています。現在、私は鶏口牛後とはユニークな存在であれという意味だと解釈しております。皆と同じように行動して、同じような商品を作って、量や規模を競い合う、そういうことよりも、ユニークで、なくてはならない存在であれと解釈をしています。商品を作るにあたって、これらの筋道からぶれないというのは確かにあります。
 商品開発で大事にしておりますのは、自分が使う気がするかどうかです。そしてよそと同じことをしない。確実に他社の上をいくものを出す。これは私どもが今まで守ってきたことで、私どもの会社の存在意義やブランドというのはそこにあると考えています。
【社長のあり方】
 次に私は5代目の社長であることもあって、よく同族の是非について聞かれます。日本は中小企業が多いですから、同族企業は珍しくはないというふう思います。しかし、これが時々、特別な問題として取り上げられる理由は、何か事が起こりますと、同族企業という経営の形が成熟した形ではないからだとされることがあるからです。この考え方は、欧米型の会社を手本にしたものだと思います。
 例えば、アメリカのビジネススクールなどの考え方は、会社を育てて株式価値を高めていかに株を高く売るかを目的にしています。これは非常に合理的だと思います。会社は永く続くかもしれないけれども、個人としては生きているうち、それも早いうちにお金を稼いで楽に暮らせるようになればいいわけです。そうしますと経営者はどんどん外部の人に変わるのが当たり前になります。会社は金を稼ぐ道具だとするなら、これは正しい考え方かもしれませんが、成熟した形だとは思いません。要するに、考え方が違うわけです。
 同族の2つ目の問題として、二代目が頼りなく見えるという問題があります。親が苦労した分、子どもを甘やかすからだろうという見方もありますが、よく観ておりますと、仕事で厳しい親は、子どもにもそれほど甘くはありません。ただ、厳しい親がいなくなると、根拠なくその反対をやろうとする子どもが居ます。社員の受けはいいですが、これはたいてい失敗します。
 それから、当人がまつり上げられてしまって、特に努力をしなくとも、親の七光で肩書が付けば、自動的に経営者になれると思い始めると、「ばか殿養成計画」がだんだん出来上がっていきます。私の結論は、言いにくいですけれども、ばか殿ができる第1の原因はもちろん本人、第2の原因は社員だと思います。
 会社の経営を考えますと、同族であるかどうかというのはたいした問題ではありません。社長職というのは誰でもなれる。ただ良い社長になるのは難しい。良い社長である確率は26%位という話があります。ミンツバーグというカナダの経営学者が書いている話ですが、1990年の時点で、ハーバードのMBAを持っていて極めて優秀と考えられるCEO 19人を選んで追跡調査をしたところ、13年後の2003年に19人のうち完全な失敗は10人、結果があやしいのは4人、うまく経営をやっていると見られる者は5人。つまり、成功確率は26%でした。また国税庁の統計によりますと、2011年度の税務申告をした日本の法人社数は276万社。そのうち、黒字申告の法人数は26%だったそうです。確率的に良い社長であり得るのは26%程度ということになります。
 さて3つ目として、実際に代替わりするにあたって、私が大事にしてきたのは、常に創業者の視点で考えることです。
 組織は下から順に出来上がっていくというイメージがありますけれども、実際は逆で、組織は上からできていくものです。だから、経営者は、本当は全部自分でやらなければいけないし、全部できなければいけない。例えば、松下幸之助さんや本田宗一郎さんがなぜ立派な経営者になったのかと考えますと、あの人たちは実務を全部自分でやってきて、その仕組みを分かっているという基礎があったことが大きいと思います。そうではなくて、出来上がった組織の上に乗っかって、自分が楽をするために部下が必要というふうに勘違いをするようになってきますとおかしくなってきます。また、組織の形に既製服はないと思います。だから、環境や規模に合わせて何年かに一度、組織の形を全部見直すことが必要だと思っています。
 念のため言いますと、経営者だけが頑張ればよいとは思っておりません。会社は人間の集団ですから、その集団の持つ知恵を活用する方法を考えるべきだと思います。私どもの会社には思い付きでも何でも提案して、そのアイデアをストックしておく提案制度があります。例えば、サッサとかゴンとか虫コナーズとか、これらはすべて社員が考えた名前です。
【自由になることの大切さ】
 商品の開発でも経営でも、時代の流れを読む目というのは必要だと思います。それはこの時代に生きていることを面白いと思うことから養われるのではないでしょうか。人は年数を経ますと、だんだん自分のキャリアや自分の知ってる範囲のものしか受け入れられないようになります。これは、ビジネスの世界では行動には理由と目的がなければいけないとか、無駄なことをするなといって鍛えられてきたことの副作用だと思います。ですから時々、そういう制約から離れて、自分の周りで起こってる出来事を興味を持って見ることです。そうしますと、時代の流れや雰囲気を自然に感じられるようになると思います。

 「ハンガリーフェア in 横浜」が平成26年11月6日(木) 17時30分から、横浜市の中心に位置するロイヤルホールヨコハマの「ベルサイユの間」で開かれた。
 主催者は当協会が務め、駐日ハンガリー大使館が共催し、外務省・日本貿易振興機構(JETRO)・ハンガリー国立貿易促進公社・神奈川県・横浜市・横浜商工会議所・日本ハンガリー経済交流促進協議会の後援、ハンガリーに進出しているスズキ、デンソー、日清食品、日本を代表する企業の一つであるNTT DATAや横浜の有力企業である東亜ガスをはじめとする27社の協賛を得ての開催であった。
 2年前の平成24年、当協会が事務局を務めて日本からハンガリーへの投資を促すために「ハンガリー投資促進シンポジウム」を開催した。今回のフェアは、ハンガリーの物産を日本に紹介し、ハンガリーから日本への輸出を増やして両国の経済交流をより活発にすることを目的として開催された。外務貿易大臣と国立貿易促進公社社長がわざわざこのために来日したことをみても、ハンガリー側のフェアにかける期待が分かる。
 ハンガリー物産を紹介するため、既にワイン、蜂蜜、陶磁器、羽毛、刺繍、チョコレートなどの物産を輸入している各社がそれぞれ出店し展示と試食の場を設けた。ハンガリー製品と言えばこうした農産物と工芸品を思い浮かべるのが普通だが、出身国別で言えばノーベル賞受賞者が一番多い国がハンガリーであることからも想像されるように、理数系にも優れた国であり、世界的に高い評価を受けている建築ソフトハウスの日本支社も参加しアピールした。またハンガリーは医学教育でも有名で、ハンガリーに留学して医師免許をとり国際的に活躍しようとする日本人も増えている。そこでこうした留学斡旋を行っているハンガリー医科大学事務局もブースを出してプログラムを紹介するなど、総勢17社がハンガリーの産業・物産の紹介にあたった。
 フェアは、元衆議院議員・当協会理事 勝又恒一郎の司会により、まず当協会代表理事米田建三の主催者挨拶に始まり、シーヤルトー・ペーテル外務貿易大臣による、このフェアをきっかけとして両国経済関係が一層進展することを期待する特別講演があり、続いてケレケシュ・ジョルジュ国立貿易促進公社社長の日本との一層の貿易拡大に期待するスピーチがあった。日本側からはまず飯村豊外務省参与・東南アジア協力担当大使が、両国交流史を踏まえつつ今後の発展への期待を語り、黒岩祐治神奈川県知事が910万県民を代表して祝辞をのべ、柏崎誠横浜市副市長による林文子横浜市長の祝辞代読に続き、JETROの𠮷村宗一理事による乾杯の辞の後、懇談の部に移った。
 懇談の部では、ハンガリー紹介ビデオの上映やハンガリーの歌と舞踊の披露に加えて両国親善のため日本舞踊も演じられ、参加者から盛んな拍手が送られた。またハンガリー大使館シェフによるハンガリー料理と大使館選定のハンガリーワインやビールも提供され、参加者は料理・ワインや歌と舞踊に親しむことを通じてハンガリーという国への理解を深め、出展企業のブースでハンガリー物産を直接手に取り、あるいは試食・試飲をすることにより、今後のビジネス交流のきっかけをつかんでいた。
 当日は、300名を超える参加者を迎えて満員の盛況であり、ハンガリー側も日本の熱意に大変感銘を受けて帰国の途についた。

 このフェアの開催に当たっては、各方面から多大なご支援を頂きました。ここに記して感謝の意を表します。

(国際経済交流協会 事務局)